品川 弥二郎(しながわ やじろう)
天保14年閏9月29日(1843.11.20)−明治33年2月26日(1900.2.26)
長門国萩松本村川端。萩藩三十人通士。幕末明治期の政治家。
諱:日孜。字:思父。通称:省吾、弥吉、弥二郎。変名:橋本八郎、松本清熊。
雅号:扇洲、苦談楼、念仏庵主、苞子、春狂、五明州、花月楼、露山荘主人、尊攘堂主人。
父は下級藩士品川弥市右衛門、母は池田六左衛門の長女まつ。
安政4年9月松下村塾に入って吉田松陰に学んだ。
同5年12月松陰の冤罪を訴えて謹慎させられたが、翌年11月には許された。
万延元年江戸に行き翌年帰萩。
同年12月塾生の一灯銭申合せに加わった。(「一燈銭申合せ帳」は尊攘堂資料)
文久2年4月上京して寺田屋事変に関係。また、江戸に行き、11月高杉晋作らと英国公使襲撃を計画、御楯組の血盟に参加した。
同3年正月松陰の遺骨を改葬する際に尽力して士雇となった。
同年2月上京したが、8月の政変のため帰国した。
元治元年6月上京し、7月の禁門の変には八幡隊隊長として戦ったが、敗れて帰国し、8月御堀耕助らと御楯隊を組織した。
慶応元年12月木戸準一郎(孝允)に従って変名して上京、薩摩との提携に尽し、国元と京都間をしばしば往復し、幕府の情勢の偵察及び薩摩と長州の連絡の任に当った。
慶応2(1866)年の薩長同盟提携では、人質として薩摩藩邸に留まった。
同3年4月30人通りに昇格し、10月大久保一蔵(利通)と岩倉具視に会い、錦旗調製のことを託されるとともに、討幕の密勅を奉じて広沢兵助らと山口に帰った。11月急ぎ上京し、世良修蔵と有栖川宮に時務条議七箇条を建議した。
明治元年10月整武隊参謀として奥羽に出陣、翌年4月渡島国に転戦、7月山口に凱旋した。
同2年12月明治政府に召出され弾正少忠となり、翌3年3月脱退暴動鎮撫方不行届の罪で一時逼塞を命ぜられた。同年6月退職し、明治3(1870)年8月普仏戦争視察のため、欧州へ派遣され、仏英独に滞在し、農政や協同組合も調査した。また、在独公使館に勤務した。
9年3月帰朝後京都に尊攘堂を設立し、6月には内務省に転じて宮中顧問官となった。
同年萩の乱、翌10年西南戦争鎮圧に尽力。同14年農商務省で殖産興業に努めた。同15年協同運輸会社設立を援助したが、過当競争で失敗。同17年子爵。同18年駐独日本公使。同20年帰国後宮中顧問官、22年御料局長官を兼任、皇室財産を確立した。
同24年6月第一次松方内閣の内務大臣となり、信用組合法案を第2議会に初提案。翌25年3月第2回総選挙における民党への選挙干渉指揮で引責辞職。その後、枢密顧問官に任ぜられたが、同年6月退官して西郷従道、佐々友房らと国民協会を組織し、ついで同副会長となった。国民協会は対外硬派の運動などで実績があったが、日清戦争後低迷し、明治32年解散。
この年枢密顧問官に復帰したが、翌年肺炎のため東京で病死した。年58。
なお、品川は渡欧中に研究した信用(協同)組合の設立奨励に尽力したことでも知られており、吉田松陰遺稿の出版、維新の殉職者顕彰、中小の商工業者の事績の記録保存にも熱心で、「トコトンヤレトン節」の作詞者でもある。東京九段に銅像。
[法名]:至誠院釈一貫日孜居士
[墓]:京都市東山区[霊山]
[著]:「尊攘堂祭神録」 「念仏庵過去帳」
「品川弥二郎日記」(「維新日乗纂輯」二、日本史籍協会叢書)
[参]:奥谷松治「品川弥二郎伝」
奥谷松治「品川弥二郎の産業政策」(「経済評論」二の十二)
村田峰二郎「品川子爵伝」 「尊攘堂書類雑記」(日本史籍協会叢書)
尚友倶楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会編 「品川弥二郎関係文書」