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大久保利通 岩下方平

梅田 雲濱(うめだ うんぴん)

 文化12年6月7日(1815.7.13)−安政6年9月14日(1859.10.9)

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 若狭国小浜町竹原三番町に生まれる。

 父は小浜藩士矢部岩十郎義比(よしちか)、母は陸奥国白河の武川又兵衛の娘。

 幕末の若狭小浜藩(福井県)藩士。尊攘派志士。

 幼名:義質、定明。通称:源次郎。雅号:雲濱、湖南、東塢。号の雲濱は小浜海岸の異名。

 天保元(1830)年江戸に出て崎門学派の藩儒山口菅山に学ぶ。崎門学を修めて帰国して、祖父の本姓である梅田氏を名乗った。ついで大津(滋賀県)の上原立斎に学び、その娘信子を妻とし、同地に湖南塾を開いて子弟を教授した。

 同14(1843)年29歳の時に京都に移り、小浜藩の塾「望楠軒」の講主となった。学派の総帥としての名声は高かったが収入は伴わなかった。その妻信子の歌に「樵りおきし軒のつま木も炊きはてて、拾ふ木の葉のつもる間ぞなき」がある。

 雲濱の講学の目的は専ら経世済民にあり、藩政および外寇防御の問題を藩主酒井忠義(ただあき)にしばしば建言した。

 嘉永5(1852)年38歳の時、藩政批判の海防策を建白、藩主の忌諱に触れ、藩籍(士籍)を削られ浪人となった。「君が世を思ふ心の一筋に吾身ありとは思はざりけり」はこの頃の歌。

 翌6(1853)年米艦が来航すると、江戸に馳せて同志と対策を協議し、さらに水戸から福井に遊説を試み、露艦が大坂湾に進入すると、その撃攘策を講じた。「妻ハ病牀ニ臥シ児ハ飢ニ叫ク」云々の有名な詩はこの頃の作。

 ペリーが来航すると、長州に赴いて藩士の奮起を促し、安政5(1858)年条約問題が起ると、門人の青蓮院宮家家臣伊丹蔵人、山田勘解由の斡旋で宮に謁し、諮問に応えて、「条約不可、時に臨んでは攘夷親征に及ぶべし」との幕府への勅答案に擬した意見書を上申した。

 また、梁川星巌と共に在京志士の合意をとり、一橋慶喜を将軍後継とすることに尽力、また大老井伊直弼を斥けて幕府の改造を図ろうとし、大義名分を説いて志士を指導した。京都の尊王攘夷派の中心として活躍、幕閣からは梁川らと共に「悪謀の四天王」と目されていた。

 同年8月水戸藩に降下した戊午の密勅も、青蓮院宮に提出した雲濱の意見書が朝議の参考になったものである。

 これが大老の謀臣長野義言の知るところとなり、9月7日烏丸の寓居で伏見奉行の手によって捕えられ、安政の大獄最初の逮捕者となり、12月江戸に檻送、小倉藩主小笠原忠嘉邸に預けられたが、幽囚中病にかかり、安政6年9月14日病死した。年45。

 [法名]:勝倫斎俊厳義哲居士、正四位

 [墓]:福井県小浜市北塩谷町松源寺

    東京都台東区松が谷三丁目[海禅寺]

    京都市東山区[安祥院]

 [参]:石橋重吉「若越乃偉人」、福井県文化誌刊行会「我等の郷土と人物」

    北島正元「梅田雲濱」、松波治郎「梅田雲濱」、間々田隆「勤王志士梅田源次郎」

   法本義弘「梅田雲濱」、梅田薫「勤王偉人梅田雲濱」

    内田周平・佐伯忠蔵「勤王志士領袖安政大獄首魁梅田雲濱先生」

    佐伯忠蔵編「梅田雲濱遺稿並伝」(維新勤王遺文選集)

    小浜市教育委員会「梅田雲濱」


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