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資料 #0161400の参考引用文献


引用文献 1

 五九 柴山愛次郎・橋口壯介 連署状 竪 〇尺五六 横 二尺一〇

貴翰辱奉拜誦候處、京師之方えは早速御掛合被下候由、御厚意深く奉拜謝候。其後此
方ニも一左右到來仕候得共、爲差儀相分不申候。何分ニも大事之一戰萬端可然樣御盡力
被成下度奉頼候。扨又狂客子等無故障首尾相成候由、嘸々御安心之筈、此方も即晩田
中え引合、大谷等は脱邸爲致申候間、先は安心仕候。猶申上度儀有之候得共、兩日中自ら
拜眉委細可申承此旨早々御報申上候 已上
 四月十五日
竹内正兵衞樣 柴山愛次郎
 御返報 橋口壯介

此の書状は薩州藩士柴山愛次郎・同橋口壯介の兩人が、長州藩士竹内正兵衞に宛てたものであつ
て、年紀を缺いてゐるが内容に依つて文久二年四月十五日附と推定することが出來る。思ふに文
久年間に入るや、政治の中心は江戸を去つて京都に移り、尊攘運動は昂騰の一途を辿り、氣鋭の
志士の間には、倒幕運動すら釀成せられるに至つた。時に幕府は眼前の彌縫策に汲々として庶政
一新を斷行する明なく、外は歐米列強の經濟的・政治的侵略が漸く其の勢を増し、國論は開鎖兩
論を繞つて四分五裂の状態を呈してゐた。時勢は一に雄藩が難局の收拾に當ることを待望してゐ
た。斯くて先づ蹶起したのが長州藩であつて、同藩士長井雅樂の航海遠略策は一時國論を支配す
るが如く思はれた。併し是亦時弊の根柢を衝かざる空論に過ぎなかつた爲、一方には九州各地の
尊攘志士を中心として擧兵倒幕の計畫が進められてゐた。是實に田中河内介及び其の旨を受けて
九州遊説に赴いた清河八郎の力に依ることが大であつて、豫て平野國臣・眞木和泉等を始め多數
の西國志士の間に鬱勃たる勢を示してゐた尊攘の氣運は、〓に其の頂點に達せんとした。乃ち安
政大獄以來蟄居遊ばされてゐた青蓮院宮尊融法親王(時に獅子王院宮と稱す)を奉じて義兵を擧
げ、幕府の氣勢を奪ひ夷狄を征して皇威を恢復せんと圖るに至つた。而して柴山愛次郎・橋口壯
介・有馬新七・田中謙助等薩州藩士中激派の錚々ため人々は、文久元年十二月平野國臣と會して
畫策を進めたのである。
柴山愛次郎は天保七年に生れ、諱は道隆、資性寡默にして膽略あり、幼より文武の道を修め、薩
州藩士中率先して尊攘の大義を唱道してゐた。橋口壯介は天保十二年に生れ、諱を隸三と云ひ、
愛次郎と親交を結び、終始提携して國事に盡瘁した。既にして薩州藩主島津茂久(忠義)の生父
久光は大兵を率ゐて京都に上り、積極的に國事周旋に當らんとし、文久二年三月十六日鹿兒島を
發した。久光の意圖は朝旨を奉じて幕府の改造を圖り、公武合體に依つて時局の收拾をなすにあ
つた。併し尊攘の志士は久光の入京に期待すること大であつて、之を機として義擧を決行せんと
した。是より先柴山愛次郎・橋口壯介は藩廳より江戸詰の命を受け、正月二十三日鹿兒島を發し
た。途次眞木和泉・平野國臣等と會し、兵を伏見に擧げて島津久光を擁し、同時に江戸に於ても
義擧を決行し、東西呼應して皇政復古に邁進することに定め、軈て兩人は京都を經て江戸に下つ
た。此の時に當り、西國諸藩の志士は義擧の計畫を聞いて續々京坂の地に蝟集し、田中河内介・
清河八郎及び藤本鐵石等を中心に畫策を進めてゐた。されば上國は宛然志士の淵叢と化し、山雨
將に至らんとして風棲に滿つの概があつた。江戸に下つた愛次郎・壯介も亦間もなく江戸詰の薩
州藩士と相前後して西上し、大坂中の島の魚屋太平に宿した。幾許もなく久光は四月十日大坂に
著き、十三日淀川を遡つて伏見に入り、十六日入京して自己の抱懷する國事意見を上奏した。朝
延は之を嘉納あらせられ、併せて浪士鎭撫の勅諚を賜はつた。是より久光は京都に留まつて、專
ら京坂の浪士鎭撫に任ずることとなつた。
此の愛次郎・壯介の書状は、正に斯かる情勢の間に認められたものである。曩に久光は大坂に著
くや、堅く藩士を戒めて猥りに他藩士及び浪士と交通するを禁じたが、愛次郎・壯介の二人のみ
は藩命に依つて專ら他藩との交渉に當つてゐた。而して兩人及び有馬新七・田中謙助等は命に依
つて大坂に留まつてゐたが、久光の態度に慊らず、依然諸藩士及び志士と策應して豫定の如く事
を擧げんとした。當時在京中の長州藩士久坂玄瑞・入江九一等は密かに聲息を通じて是に呼應せ
んとしてゐたが、此の書状によつて竹内正兵衞も亦事に與つてゐたことが明瞭にせられる。正兵
衞は文政二年に生れ、諱は勝愛、後元治元年禁門の變に奮戰し十一月斬に處せられた。書状の文
中に田中とあるは河内介か謙助か遽かに斷定することは出來ないが、大谷とあるは大谷雄藏と變
名してゐた清河八郎である。是より先薩州藩要路は久光の入京を目前にして情勢甚だ急なるを憂
へ、三月二十五日河内介・八郎・鐵石等數十人を保護の名目の下に大坂薩州藩邸に抑留した。蓋
し鎭撫の一策であつた。偶越後の浪士本間精一郎が同志に加はらんとして八郎を訪ひ、一日安
治川に舟を泛べて八郎・鐵石及び安積五郎と酒宴を催した。然るに精一郎は醉餘幕吏と紛擾を起
し、八郎は之を藩邸内に入れて保護せんとした。併し精一郎は其の爲人豫てより志士の間に信用
を失してゐたので、愛次郎・壯介等は之を拒み、且つ八郎・鐵石・五郎等が血氣粗暴に走つて大
事を誤るを惧れた。加ふるに河内介も亦漸く八郎等を疎隔するに至つた。〓に於て八郎等は四月
十三日深更薩州藩邸を去つて義擧の計畫から脱退するに至つた。「大谷等は脱邸爲致申候間、先
は安心仕候」とあるのは此の事を指すのであつて、愛次郎・壯介等が「大事之一戰」を前に如何
に愼重を期したかが窺はれる。又「兩日中自ら拜眉」とあるは、當初義擧の豫定が四月十八日早
曉に決せられてゐた爲である。豫定は少しく延引して四月二十三日朝、同志の者淀川を遡つて伏
見の薩州藩船宿寺田屋に投じ、其の夜を以て義擧を決行せんとした。久光は之を聞き、既に屡次
懇諭を加へたにも拘らず敢て干戈を動かさんとするを憤り、直ちに奈良原喜八郎等八人を選んで
鎭撫に遣はした。斯くて此の夜寺田屋の變が起り、愛次郎は二十七、壯介は二十二を以て悲壯な
最期を遂げたのである。此の書状は其の死を去る僅か八日前にして、常に出處進退を共にした兩
人の連署であるのも一入感慨深きものがある。

(出典『尊攘聚英解説』)

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