二九 三〇 岩倉公隱棲の趾
岩倉具視は、前中納言堀川康親の次男、岩倉具慶の養子なり。文政八年九月十五日京都に生る。幼名周丸、慧頴奇才あり。年十四にして從五位下に叙し昇殿を許され侍從に任ず。是時に當りて米使浦賀に來りて互市を請ふ。幕府專斷、私に條約を締結し、允許を朝廷に請ふ。朝廷許さず。勅して曰く、「奏事外國の事に係る極めて大なり、上祖宗神明を懼れ、下蒼生人心を慮るに、輙く決すべからず。宜しく諸侯の公議を採り、具に之を奏すべし」と、蓋し具視等の建議に因るなり。是よりして朝幕一致せず、命令相背馳す。偶々公武合體皇妹和宮降嫁の事あらんとす。具視以爲らく、「降嫁の事古其例なきに非ず。且つ是が爲に公武の協和成るに至らば、國家の幸慶なるべし」と。之を關白九條尚忠に謀る。尚忠之に賛成し、共に大に盡力す。具視和宮に隨伴して江戸に赴き朝幕の間に斡旋せり。然るに幕府何等舊弊を改めず、世上非難の聲囂々として皆具視を責む。朝廷亦群議に動かされ降嫁の事に與りたる者に諭して職を罷めしむ。具視亦勅勘を蒙り、事志と違ひて辭職し、岩倉山莊に隱退し、薙髪して友山又は對岳と號す。時に文久二年十月なり。蟄居の間と雖も一日も國事を忘れず、常に心を王政復古に碎き、維新大業の基を此山莊に開きたり。明治元年二月東征副總裁、海陸軍務會計事務總督に任ぜられ、終に能く維新の大業を達成するに至れるが、具視實に之が中心たりしなり。明治十六年七月十八日公の病大に漸むや、天皇親く病を訪ひ給ふ。此日終に薨ず。年五十九。明治十八年七月二十日特旨を以て正一位を贈らる。公が岩倉に蟄居するや、一僕を隨へ飄然京を立ち出で、いかさまに思ひわきても嘆ちても涙のみこそふりまさりけれと詠じ途を急ぎしに、急進派の人々が公に危害を加へんとするより、逃げ廻りて岩倉村に入り茅屋に蟄居し、問ひもしつ問はれもしつる友垣のあと絶え果てゝ殘る雪かなと境遇の激變を歎したるが、斯る中に玉松操、香川敬三、杉孫七郎、大橋順藏、品川彌二郎、大久保一藏、坂本龍馬、中岡愼太郎、西郷吉之助等の志士頻りに來往して日夜協議を凝し、皇政復古の大策並に討幕の爲め全國合同の策を樹て、侍從千種有任に托して密奏せしめたり。此間常に公の傍に在りて、補佐献策せるは玉松操なり。慶應三年十二月九日政局一變して蟄居勅免復職參朝の命に接し、公は圓顱に冠を戴き、皇政復古の勅制及び詔令等の文案を携へ參朝せりといふ。
【解説】
岩倉公の岩倉村に隱るゝや、先づ三四郎といへる農家に身を托し、同村藤屋藤五郎所有の古家を〓りて移れり。此家は僅に風雨を庇ふに足るのみにて、簷破れ柱傾き、恰も狐狸の栖所に異らず、公の日記中にも、終日掃除の處、古屋にて實に住居なし難し、兎に角落涙の外なし。とあり。又曾て公の知遇を受けたる藤井九成なる志士の手記にいふあり。二月十九日、岩倉村入道の幽閉所に微行し、百姓三四郎の茅屋に探る。野業中不在空屋厨の方に飼馬調る人影あり。誰問之、即具視公の對岳入道也。三四郎等の粮を炊くところと、一別を謝し、懷舊に時を移し、近日の形勢を語り、諸卿の眞意誠心を評し、再會を約し退散す。後幽居に他人の出入すること伏原三位の知るところとなり、之を本家として久我三位中將を威し、久我より知光院をして誡めしむ。親戚と雖も斯の如し。百姓三四郎は岩倉公子の乳親の間柄なり 云々
それより番兵監視の間を潜りて志士と會して國事を談し、此岩倉村の一草廬が當時維新の策源地たりしなり。公の隱棲は五年なりしが、後公の臺閣の重きに列して後も常に此岩倉村を忘れず。岩倉公實記にいふ、具視東京に移住せし以來、京都に往けは則ち岩倉村莊に遊び、曾て相識る所の父老を招飲し、農桑を話す、幾んと往年幽居の時に異ならす、是歳明治九年十二月暇を乞ひ京師に往くを以て亦岩倉村莊に遊び闔村の男女を招集し、飲讌數日に渉る。人毎に白地の手巾に藍汁を以て時辰器を畫き、「時は寳なり」の一語を書したるもの各一條を與へ、以て農桑を勤むることを諭す。其京都に還らんとするに臨み、特に金若干圓を惠む。闔村大に悦ふ。父老相議して永遠の利を興すの資に供し、以て記念と爲さんことを謀ると云ふ。今や同村は岩倉公舊蹟保存會なるものを設け、此遺蹟を永遠に保存せんことを企圖しつゝあり。
(出典『京都維新史蹟』)
Copyright 1997, Kyoto University Library