三六 三七 近藤勇と壬生屋敷
文久二年の暮、幕府は盡忠報國を名として、俄に諸國の浪士を募集せり。斯くて莊内藩清川村郷士清川八郎之に賛して應募せり。又近藤勇の一黨は、土方歳三を初め沖田、山南、原田、井上、藤堂、永倉等之に加はり、將軍家茂上洛の警衞と京都守護に任ずべき旨を受け、茲に新徴組なる浪士隊を組織せられ、其數二百三十四名、之を七組に分ち、文久三年二月九日江戸を發し、二十三日上洛。近藤勇と土方歳三等二十七名は第六番組、清川八郎、池内徳太郎、芹澤鴨は取締附となる。一同壬生村に分宿して專ら將軍を守護するを目的とせり。近藤以下は壬生八木源之丞方に屯所を置けり。然るに到着後久しからずして幕府は此一隊に對して至急東下せよとの命を傳へしかば、二百二十一名の清川部下は江戸に逆戻りし、近藤、芹澤等十三名は此幕府の命に從はず、同志連署して大樹公御下向迄滯京警衞仕度旨の歎願書を提出し、幕府も之を聞届けたれば茲に新選組と改稱し、松平肥後守の御預となり、八木方に本陣を置き「壬生浪士屯所」なる看板を掲げたり。後文久三年九月十八日芹澤鴨暗殺せらるゝや隊長を近藤勇、副隊長を土方歳三とし、參謀は伊東甲子太郎、茲に改めて新選組と稱するに至れり。隊長の近藤勇は素行修らず、議論のみは見事なりしも、頃る亂暴なる男にて、其下に使はるゝ浪士皆狼藉者ばかり、物品を購ひても代金を仕拂はざる程なれば、願人は新選組と聞きては身の毛立ちて之を恐れたり。文久三年八月二十一日には三條木屋町の勤王志士の潜伏所を襲ひ、文治元年六月には桝屋旅館の主人を捕縛する抔過激の行のみ多し。斯くする中に蛤御門の戰起りて大に奮鬪せり。以て本陣を西本願寺の太皷堂の側に移し、又稻荷の御旅所の附近へ移れり。此頃近藤勇は伏見街道にて何者かに狙撃せられ、彈丸は右肩を貫通して創重く、鳥羽伏見の戰には從軍する能はざりき。後、近藤、土方等は東歸し、近藤は武總の國境流山にて兵を募りしも遂に成功せずして官軍の爲に捕縛せられ、江戸の市外王子瀧の川に於て辭世の詩を殘して慶應四年四月二十五日從容として死に就けり。其首は京都に送り五月三條磧に梟首せらる。
土方歳三は、武州日野在石田村の百姓の四男に生る。江戸に出で上野廣小路伊藤松坂屋に奉公し、後府下日野在縁家佐藤彦五郎の宅に食客となり。所々の使ひ歩き等をなし居り廿歳にして再度江戸に出て武道を學び熱心に劒道を勵み、後武甲の道場に辭を低くして指南を乞ひ歩るきしが、後江戸に戻り、小石川小日向柳町の近藤周齋の門人となり、天然理心流の劒法を學び遂に勇等と交りを結ぶに至れり。斯くて勇の捕へらるゝや、流山を脱出し、會津に走り更に凾館に行き榎本武揚の幕下に參じ陸軍奉行並になりしが、武揚官軍と和するや極度に悲觀し自から戰場の危地に進み、明治二年五月十一日の激戰に馬上彈丸に當り戰死す。年三十五。
【解説】
壬生屋敷は新徴組一部の屯所たりしが、後新選組一派の屯所となれるもの、もと八木源之丞なる豪家の住宅なるが、今尚ほ當時のまゝ現存し、浪士等が亂暴の跡を留む。芹澤鴨、平間重助等の害せられしは此家なり。
(出典『京都維新史蹟』)
Copyright 1997, Kyoto University Library