松浦松洞は天保8年(1837)萩の魚商の家に生まれ、後長州藩士根来主馬の家臣となった。幼時より絵画に長じていた。安政3年(1856)松陰の門下になり、吉田稔麿と協力して松下村塾の基礎を固め、尊皇攘夷論を高唱した。
松陰殉難の後、国事に奔走し、文久2年(1862)春には京都に上り、航海遠略策を唱導する長井雅楽に憤激して、これを刺殺しようとしたが、宍戸左馬介の制止により果たせなかった。しかし、松洞の憂憤の念はおさまらず、4月13日26才の若さで粟田山に入って自刃したのである。粟田宮の正議を欽慕してのものであろう。松洞の死は松陰門下にあって最初の殉難であり、同門の士を大いに鼓舞することになる。松洞は好んで忠孝節義の人を描き風教に資して、世を裨益しようした。この図は、源実朝が霰たばしる那須の篠原で狩猟をしている姿を描いたものである。
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