森寛齋は、長州藩士石田傳内の子として文化11年(1814)に生まれた。幼少時から絵画を好み大坂に出て森徹山の門に入った。この頃の京阪の画壇は、円山應挙の円山派、杉村呉春の四条派が風靡して写実主義が主流であった。徹山は森狙仙の義子で應挙に学び円山派を大坂に広めた。徹山に師事した寛齋の画技は進歩し、やがて望まれて徹山の義子となるが、勤皇の志篤く、尊攘の事にも奔走した。維新後は再び画道に専心し、明治23年(1890)には帝室技芸委員を命じられ、門下からは山元春挙のような画家を排出した。永らく京都画檀の重鎮として活躍したが、明治27年(1894)6月81才で没した。この異人図は、箱書には人体的異人図と記されており、元治元年(1864)に描かれたものである。背景として、文久3年(1863)朝議により、5月10日が攘夷決行の期日とされた。これにより、長州藩は、下関海峡で米・蘭・仏等の外国艦船を砲撃した。一年後の5月10日長州藩主毛利敬親は、下関攘夷戦争の1周年を記念して臣下と祝宴を開いた。藩から上京する者が相次ぐ中、情勢は緊迫の度合いを強めていった。藩地にあった少壮の尊攘の志士達は、寛齋に依頼して異人図2面を作成してもらい、記念日にはこれを銃撃して祝意を表したという。幾許もなく、池田屋の変、禁門の変が勃発し、関わった者のほとんどが戦没して、僅かに弾痕に記された人名が、この時の意気を留めている。この後、この画は、転変のうちに、その存在を忘れられてしまったが、明治26年(1893)9月に尊攘堂に納められた。この間の事情については、松本鼎(尊攘堂委員)の記した次の箱書によって詳細を知ることができる。
人體的異人圖
有距今三十年、元治元年甲子五月十日者、於長門國赤馬關檀浦砲撃異艦一周年也。我
公飲酒於諸臣以祝焉。時在京都藩邸同志者相謀、囑森寛齋畫異人圖、翁以意想作此國二葉囚貼付之戸板於蹴上邸銃撃射的亦表祝意也。余與品川・阿武二氏亦與焉。
及六月五日・七月十九日變起、嚮相謀者、十中八九戦歿、無復知其事者。今茲明治二十六年九月五日、於京都東山招魂場、擧行元治元甲子年殉難士三十年之祭典 陳列遺墨于高臺寺方丈、豐後屋友七遺族出此圖。乃翁所畫之一而、品川氏所與友七者也。彈丸
箭鏃之痕、依然猶存、使人追懷往事。因強請之、装釘以納尊攘堂云。友七者藩用達也。 明治二十六年九月 松本 鼎謹誌
修祭事之後二日、寛齋翁開八十壽筵、假集所畫繪畫四百餘矣。此圖亦其一也。因請
捺其印章。翁亦驚其奇遇云。並識。
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