以上のような京都の情勢を記して、朝威の隆昌を喜びつつ、文末に至って薩州藩の態度に一抹の危惧の念を洩らしている。当時薩州藩は、長州藩を始め諸藩の志士が勢いに任せて、矯激に走ったり、暴断に傾くのを憂い、薩長の感情の齟齬が甚だしくなっていった。8月18日の政変、禁門の変等の原因は、ここにあった。書中の追書でこのことが予言されており、瑞山の烱眼がうかがえる。土佐藩主山内豊信もこの過激な運動をよしとせず、瑞山始め自藩の志士に対て、圧迫を強めつつあった。なお、追書には、将軍徳川家茂が2月13日に江戸城を出発し、やがて入京の予定であること、水戸藩主徳川慶篤の上京のことも記されている。将軍の入洛は、明正天皇の寛永11年(1634)に三代将軍家光が上京して以来、220年余途絶されていた典儀の再興であり、将軍の皇室尊崇、大政輔翼の道に外ならず、これによって、幕府権力の衰頽が天下に示されたのであった。また、文中に、鼎太夫とあるのは、深尾鼎のことであり、当時執政の要職にあった人物であり、4月にこれを辞している。
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