3.ヨーロッパ製アジア・日本図

 

 ヨーロッパ人に伝えられた伝説的な島ジパングが,アジア図の中にその位置が示されるようになるのは,16世紀初めごろのことであった。当時の地理的情報のフロンティアの一つが,東アジアであった。以来,情報源や地図作製者の認識によって,日本の位置や形状は,さまざまに変化した。有名なオルテリウスの地図帳の1595年版に収められたルイス・テイシェラの日本図に至るまで,日本の形状はずいぶん奇妙な姿をしていた。室賀信夫はこれをメルカトール型,オーメン型,ヴェリェ型,ドゥラード型の四種類に分け,特に1554年ロポ・オーメン作製図に注目した。ポルトガル人は早くから,日本が大陸に連接しているのではないかと考えていたようであり,オーメン型の日本がその証拠となると考えた。

 


Tabvla Svperioris Indiaee et Tartariae Majoris

3-1 L. Fries: `Tabvla Svperioris Indiaee et Tartariae Majoris` (1541)

 木版・手彩色。55×41 cm。

 本図は,ヨーロッパ人が日本に渡来する直前の時期の東アジア像・日本像を示すものとして興味深い。経緯度による台形状の枠組は,2世紀のプトレマイオスの地理学を継承し,その修正作業を盛んに行ったルネサンス地図学の特色である。
 本図は,L. Friesが刊行した『プトレマイオス地理学』(1522初版,ウィーン)に所載された「インド・タルタリア(韃靼:だったん)図」であり,CATHAI(カタイ=中国)を中心とする東アジアを表現している。典型的なプトレマイオス図であるが,描かれた内容には,マルコ・ポーロの記述に基づいて描かれたマルティン・ベハイムの地球儀の影響が認められる。右下に描かれたZINPANGRI(ジパング)は,北緯10〜30度という南方に位置する南北に細長い一島として表現されている。そこには北回帰線が通過し,また架空の2都市が示されている。【11-13】

 


IL DISEGNO DELLA TERZA PARTE DELL' ASIA

3-2 Giacomo di Gastaldi: `IL DISEGNO DELLA TERZA PARTE DELL' ASIA` (1561)

 銅版。80×70 cm。

 天文11年(1543)にポルトガル人が種子島に漂着して以来,ヨーロッパ製の地図のなかの日本は,しだいに日本から伝えられた知識や絵図を材料として描かれるようになる。本図は,16世紀イタリアの地図学・地理学者であり,「メルカトルとオルテリウス以前の最も優秀な地図家」とも評されるジャコモ・ガスタルディによって作製された「アジア第3図」である。本図の右端には,Giapan(日本)の西南部のみ描かれ,ポルトガル人の最初の日本渡航地方であるCangoshima(鹿児島)が記されている。ここでは,九州・四国・本州の区別は認められず,なお日本が一つの島として捉えられていたことが窺える。【11-10】

 


TARTARIAE SIVE MAGNI CHAMI REGNI typus

3-3 A. Ortelius: `TARTARIAE SIVE MAGNI CHAMI REGNI typus` (1570)

 銅版・手彩色。55×46 cm。

 16世紀中期〜17世紀中期の1世紀の間,ヨーロッパの地図学の中心は,メルカトルと本図の刊行者オルテリウスに代表されるフランドル地方にあった。本図は,アントワープのオルテリウスの世界地図帳『世界の舞台』(1570年刊)に載せられた「タルタリアまたは大汗国図」である。
 日本の形態は,一島としてでなく,本州・四国・九州らしき島々の集まりとして描かれており,前掲のガスタルディ図に比較して書き込まれた地名が増加している。しかし,九州が分裂していること,朝鮮半島や山東半島が無いこと,北海道が無く,アジアとアメリカを隔てる架空のアニアン海峡(Stretto di Anian)が描かれていることなどをみれば,海岸線の多くが依然として想像によって描かれていることが窺える。
 なお本図は,1963年にマドリードのCarlos Sanzより室賀信夫に贈られたものである。【11-11】

 


IAPONIAE INSVLAE DESCRIPTIO

3-4 L. Teiseira: `IAPONIAE INSVLAE DESCRIPTIO` (1595)

 銅版・手彩色。56×45 cm。

 オルテリウス『世界の舞台』は好評をもって迎えられ,その後再版・増補版が繰り返し販売された。本図は1595年の増補版において付加された「日本諸島図」であり,刊行地図帳としては最初の日本専図だといわれる。作者のルイス・テイシェラはポルトガルの地図作製者であり,本図をオルテリウスに提供した。その原図がいかなるものであったかは諸説あるが,日本からポルトガルに伝えられた日本製の地図が参照されたことが考えられる。
 北海道を欠くものの,日本列島の諸島の位置関係は比較的正しく表現され,また記載された多くの地名が,誤りを含むものの,中国式でなく日本の発音で示されているところに特徴を見いだすことができる。とりわけ国の名が多く記載され,また宣教師に関わる地名がみられる。【11-1】

 


CHINA Veteribus SINARVM REGIO nunc Incolis TAME dicta

3-5 Guiljelmus et Johannes Blaeu: `CHINA Veteribus SINARVM REGIO nunc Incolis TAME dicta` (1650)

 銅版・手彩色。58×48 cm。

 オルテリウスとメルカトルに続く17世紀の世界地図帳発刊者として知られるのが,本図「中国近域図」に名を記したウィレム・ブラウとその子ヨアン・ブラウである。この親子はアムステルダムに本拠地を置き,1662年には代表作となる『世界地図』12巻を刊行した。本図はそれ以前に作製されたもので,島としての朝鮮半島や,北海道の欠如を特色としている。なお,テイシェラ図に似て,日本の東部には架空の島がある。これらの島々は,1643年のフリースによる日本近海の探険の成果がヨーロッパにもたらされた後,ヨーロッパ製の地図からは消滅していった。【11-36】

 


ROYAUME DU IAPON

3-6 P. Briet: `ROYAUME DU IAPON` (c.1650)

 銅版・手彩色。57×43 cm。

 テイシェラの日本図の約半世紀後の「日本図」である。フランスの宣教師ブリエによってフランスの Pierre Marietteから刊行された。本図には,日本内部の国境が描かれているほか,YENDO,OZACAなどの地名がみえ,IESSOが姿を見せている。
 もっとも架空の島々が太平洋に描かれていることは前掲のテイシェラ図やブラウ図と同じであり,さらに琵琶湖〜淀川が内海として描かれている。これは本図の原図となったポルトガルの宣教師A.F.カルディムの『日本殉教精華』所載図を踏襲したものである。【11-16】

 


Recentisfima ASIAE Delineatio

3-7 I. C. Hommanni: `Recentisfima ASIAE Delineatio`

 銅版・手彩色。58×50 cm。

 本図は,ニュールンベルクに本拠をおいたホーマン(1664-1724)の「アジア図」である。彼は18世紀ヨーロッパの著名な地図家として,1737年,1748年版の世界地図帳が知られている。日本の周辺に注目すれば,本州・四国・九州の形状はやや不正確ながら地名が多く示されているのに対し,北海道付近の表現には様々の特色が認められる。カムチャツカ半島と本州の間には,小島が群島を成しており,それとは別に COMPAGNIE LAND の名をもつ比較的大きな島が描かれている。これは,この時期のヨーロッパ製極東図にしばしばみられるもので,地図によってはアメリカ大陸に連続するように描かれることもあった。【11-12】

 


PARTIE ORIENTALE de l'Empire DE RUSSIE

3-8 `PARTIE ORIENTALE de l'Empire DE RUSSIE` (1771)

 銅版・手彩色。52×38 cm。

 本図は,フランスで発刊された「ロシア帝国東部図」である。ロシア東部には伝統的な地名 Tartarie (韃靼)が見える。オホーツク海をみれば,「く」の字の形に屈曲したサハリン島と千島列島が描かれているものの,日本は北海道島を含めて描かれていない。本図は,同時期の日本において確信がもたれていなかった間宮海峡を図示しているものの,サハリン島の形状や,北海道島との位置関係については,なお不明瞭な表現に止まっている。なお本図に先立つ1738-39年には,ロシアのベーリング探検隊の支隊,シュパンベルグ隊が,カムチャツカ,千島,北海道東岸を探検している。【11-40】

 


CARTE DES ISLES KOURILES dapres la Carte Russe

3-9 `CARTE DES ISLES KOURILES dapres la Carte Russe` (1779)

 銅版。28×40 cm。

 本図は表題によれば, L'HISTOIRE GENERALE DES VOYAGES に所載された「ロシア作製の図に基づくクリル諸島図」であるが,詳細は不明である。図の内容は,前掲の「ロシア帝国東部図」に似て「く」の字型のサハリン島を持つだけでなく,本州との間に Matsoumai, Kounachir, Zelenoi といった名の島々を示す。【11-39】

 


J. F. G. de la Perouse: `CHART OF DISCOVERIES made in 1787, in the Seas of CHINA and TARTARY` (1798)より

 銅版。

 本図をもたらしたラ・ペルーズ(1741-88)は,ルイ16世の命で世界一周を試みた人物である。彼の探検隊は,1787年に日本北方を航海測量したものの,その翌年にオーストラリア近海で消息を絶った。しかし,本国に送られていた記録によって『ラ・ペルーズ世界周航記』ならびにここに展示した附属地図帳が刊行された。なお本図はフランス語版ではなく,ロンドンで出版された英語版である。【11-17】

 

ラ・ペルーズ付図No.39

3-10 ラ・ペルーズ付図No.39。52×42 cm。日本周辺でのラ・ペルーズの航海の軌跡を示している。探検隊が陸地沿岸に沿って航海していた所では,海岸線が測量された。しかし日本列島の大部分は測量されず,既成の地図が流用されたことが窺える。

 


ラ・ペルーズ付図No.43

3-11 ラ・ペルーズ付図No.43。53×42 cm。フィリピンより日本に向かう航海の軌跡が示されている。

 


ラ・ペルーズ付図No.46

3-12 ラ・ペルーズ付図No.46。42×52 cm。日本海から間宮海峡,宗谷海峡,千島列島に至る航海の軌跡が示されている。間宮海峡では測量活動が集中して行われたものの海峡を通過しなかったこと,また宗谷海峡に「ラ・ペルーズ海峡」と命名したこと,択捉島らしき島を「カンパニーランド」と認めたことが示されている。

 


ラ・ペルーズ付図No.47

3-13 ラ・ペルーズ付図No.47。42×52 cm。JESOGA-SIMAとされた北海道島東南部を示す。測量された海岸線のみ示されているため分かりにくいが,厚岸から根室付近が描かれている。

 


ラ・ペルーズ付図No.52

3-14 ラ・ペルーズ付図No.52。42×53 cm。間宮海峡に面した大陸側の CASTRIES 湾の測量結果を地図化したものである。ラ・ペルーズは,太平洋の各地の島や湾において同様の地図を作製した。

 


ラ・ペルーズ付図No.69

3-15 ラ・ペルーズ付図No.69。53×42 cm。PLANと題されているように,クリル諸島(千島列島)の概念図である。

 


ラ・ペルーズ付図No.59      ラ・ペルーズ付図No.60

3-16, 3-17 ラ・ペルーズ付図No.59,60。28×42 cm。日本船・中国船のスケッチである。ラ・ペルーズは,上陸した地域によっては,風景や家屋のスケッチも作製した。

 


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Copyright 1998. Kyoto University Library