2.蝦夷地の地理像と新訂万国全図

 

 1730年代に帝政ロシアの東方フロンティアがオホーツク海に及ぶと,わが国でも国防意識の高揚を伴いつつ蝦夷地への関心が高まった。天明6年(1786)には林子平の『三国通覧図説』が著され,その前年には幕府は蝦夷地の調査と北辺境域の確定作業を開始した。
 蝦夷地一帯は,当時のヨーロッパ諸国の探検航海からも取り残されていた部分であり,文化5年(1808)の間宮林蔵による間宮海峡の発見は,当時の世界地図の空白を埋める主要な足跡であった。幕府天文方の高橋景保は,これらおよび伊能忠敬の日本列島沿海測量の成果と英国アロースミス刊の世界図を融合し,当時世界最新の世界図を完成した。しかし,その間のシーボルトとの情報交換が幕府に密告されるに及び,シーボルトの国外退去と高橋景保の獄死へと暗転した。

 


蝦夷国全図

2-1 林子平「蝦夷国全図」天明5年(1785)写本

 手写本・手彩色。55×92 cm。

 本図は,天明5年(1785)に江戸の須原屋市兵衛によって板行された林子平の「蝦夷国全図」を筆写したものである。林子平(1738-93)は,『三国通覧図説』や『海国兵談』を著し,ロシアの脅威や蝦夷地の開拓を説いたことで知られる。本図は,板行された最初の蝦夷専図として影響力をもち,盛んに筆写されたが,その地理像はさまざまな点で実像と乖離している。南北に長く延びた北海道本島,大陸からの半島として表現されたカラフト島,カラフトとは別の島として描かれた「サガリイン」が,その特徴である。これは,既に存在していた松前藩作製の諸図だけでなく,オホーツク海北部の注記に「ゼオカラーヒ」云々とあるようにオランダの地理書をも参照し,諸情報を融合させた結果であったと考えられる。【5-7】

 


蝦夷図

2-2 山口鉄五郎ほか「蝦夷図」天明6年(1786)

 手写本・手彩色。101×96 cm。

 天明5年(1785)2月,田沼意次を老中とする幕府は,御普請役・山口鉄五郎以下10名を蝦夷地調査に派遣した。本図はこの調査隊によってもたらされた絵図である。本図に名は記されていないが,最上徳内も助手として調査隊に参加していた。
 本図は,前年に板行された林子平図に比べてかなり正確に諸島の位置関係を捉えており,千島列島や一島として描かれたカラフト島の形状は,当時としては優れたものである。もっとも,調査隊の足跡の及ばなかったカラフト北部や千島列島ウルップ島以北については,「蝦夷人・山丹人・赤人」の描くところに従ったと述べている。【5-34】

 


蝦夷国図

2-3 「蝦夷国図 間宮林蔵検地製造」

 手写本・手彩色。70×135 cm。

 間宮林蔵(1775-1844)は,寛政12年(1800)に蝦夷地御用雇となり,享和3年(1803)に蝦夷地を測量,文化5年(1808)にはカラフト島に派遣されて間宮海峡を確認したことで知られる。
 本図の表紙題箋は「間宮林蔵検地製造」と称しており,一島として表現されたカラフト島の形状や,サガリイン島の消滅,地名表示の面で間宮林蔵の調査成果を反映していると推測される。しかし,北海道本島の形状や「蝦夷地奇観」と題する解説には,とくに間宮林蔵の探険に触れるところが無い。本図の作製に間宮林蔵が直接関与したかどうかは不明であるが,間宮林蔵の探険以後流布した様々な蝦夷図のうちの一つであると考えてよいだろう。【5-6】

 


北蝦夷地図

2-4 「北蝦夷地図」

 木版・色刷。44×71 cm。

 本図は,作者・作製年ともに不明であるが,日本北方の地理的な諸情報が様々に融合している点で,間宮林蔵や高橋景保の時代の蝦夷の地域像の特色がよく表れている。とりわけ,カラフトが大陸からの半島として表現され,さらにサガリイン島を描いている点で,本図は林子平図を継承し,間宮海峡を否定している。しかしながら,北海道島や千島列島の形状,また北蝦夷地(カラフト)やオホーツク海沿岸の地名の詳細さは,間宮林蔵らの北方探検の成果や,同時代のヨーロッパ製アジア図を踏まえていることを窺わせている。また,朱字で「立」とあるのは,ロシア・中国の「番所」を示している。【5-21】

 


新訂万国全図

2-5 高橋景保「新訂万国全図」 文化7年(1810)

 銅版・手彩色。198×115 cm。

 高橋景保(1785-1829)は父・至時を継いで幕府天文方を勤めた。天文学者・蘭学者・地理学者として活躍し,伊能忠敬の測量作業を監督したことや,シーボルト事件によって獄死を遂げたことが,知られている。
 本図は,幕府の命によって3年がかりで完成された大型の世界図である。銅版の世界図は,すでに司馬江漢によって作製されていたが,本図は横幅2mに近いサイズと,当時最新のアロースミス図を基図とし,間宮林蔵による間宮海峡の確認が直ちに地図化されている点,日本列島の形状が伊能による測量によって正確になっている点などが評価される。なお図の4隅には,北極・南極・京都および京都の対蹠点を中心とした半球図が付せられている。【2-17】

 


北夷考証

2-6 高橋景保『北夷考証』所載 校定図 文化6年(1809)

 本書は,高橋景保によって著されたカラフトの地理像に関する著作である。カラフトとその周辺地域にかかわる中国・ヨーロッパ製地図,および間宮林蔵による地図を比較検討し,カラフトが独立した島であることを述べている。【室賀コレクション外】

 


間宮林蔵カラフト図写

2-7 「間宮林蔵カラフト図写」

 筆写。28×76 cm。

 本図の原図は文化8年(1811)の間宮林蔵『北夷分界余話』所載の地図であり,室賀信夫が自ら筆写したものであろうか。間宮林蔵はこの前年に,大縮尺のカラフト図「北蝦夷島地図」(内閣文庫蔵)を幕府に提出しており,その内容を小縮尺で提示したものが本図である。
 カラフト島の形状や緯度の表示は,伊能忠敬に測量技術を習った間宮林蔵自身の測量結果を踏まえており,かなり正確なものとなっている。また地名が,カラフト島西岸,東岸南部,およびアムール川河口に詳細に記されている。ただし東岸北部に地名が見られないのは,林蔵を案内した現地人が,案内を拒んだためであるとされる。【5-36】

 


蝦夷諸島図 蝦夷諸島図 蝦夷諸島図 蝦夷諸島図

蝦夷諸島図      蝦夷諸島図

2-8, 2-9, 2-10 「蝦夷諸島図」

 手写本・手彩色。3面。92×76 cm, 84×81 cm, 83×93 cm。

 本図の原図は,嘉永7年6月(1854)に板倉伊予守より阿部正弘(1819-57)に贈られた北海道図であり,室賀と地理学教室同窓の阿部正道氏(阿部正弘の子孫)が所蔵する。これを昭和33年に室賀自身が筆写したものである。
 阿部正弘は,嘉永7年(安政元年)3月に幕府の老中として日米和親条約に調印しており,本図はその3ヶ月後に贈られた図ということになる。興味深いのは3面のうちの1枚の間宮海峡に重ねられた貼紙である。それらは,間宮海峡が無いとした場合,有るとした場合を示しており,間宮海峡に関する諸説を説明する役割を果たしている。また,黄色で蝦夷地を示し,茶色でロシア人「徘徊」の地を表現している点では,この時代の領土意識を窺うことができる。【5-37】

 


 [Previous]   [Next]

 目次へ戻る

Copyright 1998. Kyoto University Library