挿絵とあらすじで楽しむお伽草子 第13話

弁慶物語


※本書は上巻を欠いているため、系統的に近いとされる慶安四年刊本(『室町時代物語集』所収)の本文によって補いました。また同系統の慶應義塾大学所蔵古活字版もあわせて参照しました。


■ 上巻 ■
 昔、喧嘩好きの武蔵房弁慶というものがおりました。そもそもこの弁慶は、熊野の別当、弁心が、長年子どものないことを嘆いて、若一王子に祈り、授かった子どもでした。ところが十月十日たってもいっこうに生まれる気配がありません。三年たってようやく生まれたのですが、いざ生まれてみると、世にも恐ろしげな様子です。髪の毛は首の辺りまであり、眼も虎のように輝いています。歯は全て生えそろっておりましたし、足の筋肉なども隆々としています。普通の子どもの三歳くらいに見えました。その子どもが生まれるやいなや肘を突いて起き直り、ぐるりとあたりを見回したかと思うと、
「なんと明るいことよ。」
と言ってからからと笑ったのですからみなびっくりです。
 弁心はこれを見て、
「なんとあさましいこと。神は鬼子をさずけたもうたか。」
と、腰の刀で子どもを斬ろうとします。
 しかし、それを母がとめました。
「わたくしのお腹の中に三年もいたのですもの、ものを言うのも当たり前ではありませんか。この子は若一王子から授かった子です。なにか訳があるのでしょう。お気に召さなければ、運を天に任せ、野山にお捨てなさいませ。」
 弁心はなるほどと思い、子どもを山奥に捨ててしまいました。とはいえやはり気になって、七日後に人を見に行かせてみると、何ということでしょう、木陰で木の実を拾って食べながら、悠々と遊んでいるではありませんか。この使いをみつけて、
「おのれは誰じゃ。わしを迎えに来たのか。」
と言って駆け寄ってくるので、使いは恐ろしくなり、命からがら逃げ出しました。
 館に着いた使いは、恐怖のあまりものも言えません。ようやく、
「あの子どもは生まれて十日もたたないのに、わたしを追ってきました。あの山は鬼の住みかとなってしまうでしょう。」
と報告しました。それ以来その山へ入る者はおりませんでした。
 同じ頃、京都に五条の大納言という人がおりました。この人も子どものないことを残念に思い、若一王子に参詣したところ、七日目の夜にお告げがありました。
「この山の中に、捨て子が一人いる。その子を育てよ。この世では悪人となるが、あの世では助けとなるであろう。」
大納言は夜の明けるのを待ちかねて、人を大勢つれて山に入ると、あちこち探し回りました。果たしてお告げの通り、子どもをみつけたので、輿にのせて館に連れて帰りました。
 この子どもは容姿は悪いのですが、目元がただ者ではありません。大納言は喜んで、若一と名付けると、大切に育てました。
 七歳になると、比叡山の西塔、慶心の坊に上らせました。若一は、何をやらせてもすぐに上達し、文字や書物はもちろんのこと、管弦にも優れた才能を示しました。
 ところが一つ困ったことがありました。この稚児は大変な乱暴者なのです。日が暮れると武芸の稽古にあけくれ、隣房の稚児たちを相手に、喧嘩ばかり。挙げ句の果てには鍛冶に大きな金ぶちを誂えさせ、ふりまわすので、寺の修行者たちはみな若一の手にかかり、怪我をさせられてしまいました。これまでは師匠の慶心や父の大納言に免じて我慢していた人々も、とうとう堪忍袋の緒が切れました。山中の人々が、慶心に若一を訴える訴訟をおこしたのです。
「当山では稚児を大切に敬っておりますから、若一殿をも大事にしなくてはならないところですが、若一殿は成人するにつれて、学問に心を染めるどころか、どんどん乱暴者になっていきます。他の稚児たちも大けがをさせられて、稚児の親類たちはかんかんです。このままでは当山に稚児は一人もいなくなってしまうでしょう。何とかしていただきたい。」
困った慶心は、若一を父親の元へ送り返す約束をしました。
 約束はしたものの、若一は師匠の慶心すらそばへ寄せ付けません。機嫌を取りながらようやく話を切り出しました。
「お前は何事にも優れているから、現世来世も頼もしく思っているけれども、山の人々がお前のことを訴えてきた。しばらくはどこかに隠れて、皆の怒りがとけるのを待ってはどうじゃ。」
若一は、
(ははあ、わしを疎んでこのようなことを言うのじゃな。)
と思い、師匠をぎろりとにらんだものですから、慶心も困ってしまいました。それでも自分が招いたことと観念した若一は、自ら師匠に別れを告げ、坊を出ました。
 若一は、
(この山に上ったものは髪を剃るのが習いじゃ。わしはこの山に長く住みながら、俗体で山を下りるとは不本意じゃ。何とかして髪を剃り、出家したいものよ。)
と考えましたが、坊を追い出されてしまったので、行くあてもありません。それに誰かに頼んで出家させてもらえば、その人を師として敬い大切にしなければなりません。それもめんどうだというので、若一は自分で髪を剃ってしまいました。
 さて、出家したからには戒を受けなくてはなりません。そこで今度は戒壇へ向かいます。戒壇を守っていた法師は、若一が髪を剃っているのを見て驚き、戒壇の戸に錠をさして逃げてしまいました。若一は戸を押し破って戒壇に上ると、自分一人で授戒の儀式をすませました。父弁心の「弁」の字と、師匠慶心の「慶」の字をとって、自ら武蔵坊弁慶と名乗ることに決めました。
 戒壇を出て歩いていると、六十歳くらいの老僧、俊海に出会いました。
「やあやあ、これは当山一の曲者、若一じゃ。たった今出家して武蔵坊弁慶と名乗ることにした。法師になったことはなったが、父にも師匠にも捨てられて、衣がない。御坊の衣をいただきたい。」
俊海が断ると、目をいからせ、例の金ぶちで打とうとします。とうとう俊海は下着一枚にされてしまいました。
 そこで弁慶ははたと考えました。
(たった今仏の御前で、盗みはしないという戒を保つと誓ったというのに、いやがるものから無理に取ったとあっては、盗みを犯したことになるかもしれぬ。むむむ……。そうじゃ、衣を取り替えたことにすればよいのじゃ。)
弁慶はいやがる俊海をにらみつけ、自分が脱いだ稚児の装束を無理矢理着せました。きらきらしい衣裳を身にまとった老僧の気持ちはどんなものだったでしょう。弁慶は老僧のお供をして、老僧を坊まで送り届けると、
「この衣を下されたお気持ちはよく覚えておきまする。この衣が古くなったら、いつでも遠慮なくここへ来て、新しいものをいただこう。」
と言い捨てて、都へ向かいました。
 さて、弁慶、
(とにもかくにも山は出た。日本中を喧嘩の修行をしてまわり、国内でわしにかなうものが無ければ、唐へ渡ろう。もしわしよりも強いやつがおったら、その時は発心して成仏しよう。さらにその上を行く名人に出会ったら、主と敬い、天下を取ろう。)
と考えます。喧嘩をするにはまず、太刀が必用です。三条の小鍛冶のもとに向かいました。
「もうし、もうし、これは右大臣殿のお使いじゃ。太刀と刀を誂えよ。」
鍛冶は百日かかって立派な刀を完成させました。弁慶は大変喜んで、
「さあ、わしについて来るがよい。褒美をたんと取らせよう。」
と言うと、鍛冶をつれて右大臣殿のお屋敷まで行きます。ところが、鍛冶を門の外で待たせておくと、弁慶は逃げてしまいました。そうとは知らない鍛冶は、待てど暮らせど弁慶が出てこないので、おそるおそる邸の内へ問い合わせてみると、そのようなことは全く知らないとの返事。鍛冶は大損をしてがっかりです。
 弁慶の方は、立派な刀を得て大満足。さらには鎧やはらまきなど、装束一式を同じ手口で手に入れました。
 ところがそこで、弁慶はたと考えました。
(仏の前で誓った『盗みをしない』という戒を破ってしまったとは浅ましい。そうじゃ、金持ちの家に行き宝をもらって、鍛冶たちにくれてやろう。)
 そのころ渡辺行春という国中に並ぶものがないほどのお金持ちがおりました。弁慶は手に入れたばかりの刀や鎧を身につけ、早速渡辺の邸に向かいます。見渡すと厳重な警備です。けれども弁慶はそれをものともせず、ずんずんと奥へ入っていきます。
 行春はちょうど酒盛りをしていたところでした。宴もたけなわというそのときに、弁慶が大声で、
「これは遠国から熊野へ参詣する修行者でござる。食べ物が尽きたので、蔵一つ開けてたもれ。」
と叫んだものですから、行春はかんかんです。
「修行者の身なりで飢えた様子ならわかるが、武者の出で立ちで『蔵ひとつ』というとは不思議。強盗のたぐいであろう。ものども、召し取れ。」
「ものをくれないというならまだわかるが、強盗とは聞き捨てがたい。ええい、目にもの見せてくれるわ。」
弁慶は縁側へ飛び上がり、行春をつかまえると、
「無駄な殺生をして罪を作る気はないが、このあたらしい太刀を馴らそう。」
と言いながら、例の大太刀で首をなでます。行春は生きた心地もしません。
「矢の一本でも射てみろ。こいつの首をへしおるぞ。お前たちの腰の刀も踏みつぶしてくれるわ!」
大の眼をいからし、ふんぞりかえっている様子をみれば、七、八尺はあろうかと思われます。どんな天魔鬼神もここまではおそろしくありますまい。
 そこへ行春の女房が走り寄って来ました。
「田舎の金持ちのことですから、おみそれいたしました。亭主のそそうを、ひらにひらにお許し下さいませ。」
弁慶はそれを聞いて、
「はじめからそう言えばよいものを。」
と、行春を許してやりました。
 弁慶は双六の盤に腰をかけると、扇をたたんで拍子をとり、今様を歌い始めました。
「この世の栄華などはかないもの。命も草葉の露のようなもの。それなのに、どうして財産をおしんだりするのか。」
さながら極楽に住むという迦陵頻伽のような声で歌います。女房はこれを聞いて大変喜びました。
「わたくしどもは、お金持ちではあっても、教え導いてくれる師にめぐりあえませんでした。これはきっと仏のご方便でしょう。さて何を差し上げたらよろしゅうございますか。」
「では宝を見せてもらうとしよう。」
女房が蔵を開けさせると、蔵の中には数々の宝物がぎっしりとつまっています。
「何でもお望みのものを差し上げます。」
ところが弁慶は、欲深いわけではありません。
「小袖を三十人が持てるくらいいただきたい。」
「まあまあ、たいそうなことをおっしゃったわりには、欲の無いこと。すぐに用意させましょう。」
弁慶はこれを受け取り、
「お志かたじけない。また足りなくなったら頼む。」
といって、都へ向かいました。小袖を持った三十人を、十人ずつ、鍛冶や鎧、はらまきをつくらせた職人三人のもとへ送りました。驚いたのは職人たちです。あっけにとられて言葉もありませんでした。
 さて、弁慶は熊野へ参詣しようとでかけましたが、日も暮れたので、ある古堂で夜を明かすことにしました。夜中になると、なにやら人の声がします。どうやら盗人たちが酒盛りをしながら、手柄話をしているようです。弁慶が聞いていると、何ということでしょう、話題になっているのはあの渡辺の館ではありませんか。
「何といっても渡辺の行春ほどの金持ちはいない。夜討ちなどして、宝を取り残すのも無念じゃ。大船に乗り、武器を船底にかくしておき、四方から攻め寄せようではないか。明日の辰の刻に勢をそろえ、未の刻に押し寄せよう。」
弁慶はこれを聞いて大喜び。
(渡辺に受けた恩をどうやって返そうかと思っていたが、これは願ってもないこと。)
と、すぐに渡辺の屋敷へ向かいました。
 まだ暗いうちのことです。行春はびっくり。
「また例の坊主がきたぞ!どうすればよいのだ!」
とふるえています。ここでも女房の方が落ち着いています。
「荒々しい人ほど、よくもてなせば却って恩に感じると申します。わたくしにおまかせください。」
というと、弁慶を招き入れ、ご馳走を進めました。弁慶はご馳走を食べてしまうと、法華経を読み始めました。その尊さといったらありません。館の人々は感動しました。
 そうこうするうちに、四方から盗賊たちが押し寄せてきました。驚いたのは行春です。仰天して肝をつぶしています。
 弁慶は予想していたことなので、少しもあわてず、読み終わった法華経をくるくると巻きなおし、目を閉じて神妙にしています。
 行春と女房は、弁慶に手を合わせます。
「お願いです。どうかお助けくださいませ。」
「お安い御用。」
弁慶は落ち着いて身支度を整え、
「味方のものども、よく聞け。門を開いて敵を中におびきよせるのじゃ。その後、門を閉ざし、橋をはずして、敵を中に閉じ込めよ。」
と命じます。味方たちはそのとおりにしました。盗人たちはわなとも知らず、どっと門のうちへと攻め入ってきました。
「味方のものたちは休みたまえ。この弁慶が引き受けよう。」
弁慶が一度なぎなたを振るうと、屈強の武者たちが数十人倒れました。ニ、三度振り回しただけで、たちまち敵は痛手を負って退散しました。味方のものたちには怪我もありません。
 行春や女房をはじめ、家来たちはみな弁慶を神か仏かと拝みました。弁慶は恩返しができたと満足した様子です。さらにこの知らせを聞いた平家が、感心して行春に所領を与えたので、行春はいよいよ繁盛しました。
 さて、弁慶はというと、熊野参詣を思いとどまり、武者修行にでかけました。越前の平泉寺というところにたどりつきました。仏前でお経を唱えていると、何か忘れたような気がして落ち着きません。
(はて、何か途中で落としたか。いやいやそんなことはない。しかし何か足らぬ。)
そこで弁慶はたと気が付きました。
(そうじゃ。この四五日というもの、けんかをしていないではないか!よしよしひとつここでけんかをしてやろう。)
ところが寺の中をみまわしても、相手になりそうな者はみえません。弁慶はある坊へ入っていきました。おりしも酒宴の最中のよう。庭では鞠をしています。弁慶は、
「物申さん。」
と声をかけたものの、用事などあるがわけありません。とっさに、
「御坊たちの蹴っているものは何という。」
と言いました。人々は笑いながら、
「これは鞠というものじゃ。」
と答えます。
「ほほう、その鞠というのは御坊たちの頭によく似ている。鏡を見たまえ。鞠も頭も区別がつかぬぞ。わしのようなおっちょこちょいは、間違って御坊たちの頭を蹴ってしまいそうじゃ。」
弁慶は大口を開けてからからと笑います。血気にはやった若い衆徒たちが跳びかかってきました。弁慶は喜んで、広い場所へ誘い出そうと、扇をひろげて招きます。
 ところが、中に比叡山の法師だった衆徒がいました。
「これこそかの有名な武蔵坊弁慶じゃ。寺中のものがかかっても、簡単に討ち取れるものではない。引き返せ。」
これを聞いて衆徒は引き返していきました。拍子抜けしたのは弁慶です。あちこち走り回って、相手を探しましたが、みな恐れをなして出てきません。弁慶はあきらめて平泉寺を立ち去りました。
 今度は中国道へ下り、播磨の書写山に参詣しました。ここでも仏前で静かにお経を読んでいます。それを見た衆徒は、弁慶についてあれこれ噂しはじめました。
「武蔵坊弁慶とはたいそうな愚か者という噂だったが、ずいぶん神妙に経を唱えているではないか。よもや本物ではあるまい。」
「いやいや、悪に強いものは善にも強いというではないか。弁慶に違いない。」
「いいやにせものじゃ。」
「いや本物じゃ。」
とうとう言い争いになってしまいました。
「言い争っても仕方ない。ちょっかいをかけてみればよいのじゃ。」
「それももっともじゃ。」
ということで、弁慶に酒を勧めました。もとより大酒飲みの弁慶です。しこたま飲んで酔いつぶれてしまいました。衆徒は、弁慶の顔に下駄の絵を描いて、
「弁慶は下駄に似ているぞ。鼻緒をすげてはこうか。」
という歌を書き付けました。
 弁慶はこれに気がつかず、目覚めると再び仏前でお勤めを始めました。ところが稚児や法師が弁慶の顔をみてくすくす笑っています。弁慶は、
(さては誰かに鼻でもとられたか。)
と思い、顔をなでまわしてみましたが、どうやら目も鼻も口もそろっている様子。そこで池のほとりに行って、顔を映してみました。するとどうでしょう。おかしな落書きがされているではありませんか。
(これは人が笑うのも道理。他人事ならさぞかしおかしかろう。わっはっは。)
弁慶は手を打って大笑い。しかしそこではたと我に返りました。
(こんなことをされて、仕返しせずにはおくものか。しかし誰の仕業かわからぬ。どうしたものか・・・・。よしよし、今の長吏は片目がつぶれているそうな。それを嘲笑する落書きをして、その詮議の場で犯人を探し出そう。)
 弁慶は大講堂の柱に、長吏の片目なのを馬鹿にした落書きを書き付けました。このことが長吏の耳に入り、長吏はかんかんです。すぐさま山中の衆徒が集められました。ところが衆徒たちはみな知らないといいます。さては客僧や修行者の仕業かということで、今度は客僧や修行者に縄をかけ、講堂に集めました。弁慶は、今だとばかりに飛び出して、修行者の縄をいちいち切って回りました。
 その時、長吏の第一の弟子、心恩房妙俊という人が進み出で、大声で叫びました。
「誰の許しを得て、修行者の縄を切ったりするのか。それに衆徒の面前で高足駄とは失礼な。脱がぬと承知せぬぞよ。」
「足駄を脱げとな。この寺には弁慶が敬うべき人は一人もいない。弁慶の顔に描かれた足駄で、衆徒のつらの上を歩いたとて、何の不都合があろうか。柱に描いた落書きはこの弁慶の仕業じゃ。修行者たちの咎ではない。それも衆徒を集めて弁慶にいたずらをした張本人を探し出すために書いたのじゃ。さてはお前か。」
心恩は
「なにをっ!」
と叫ぶと長刀を取り直し、弁慶にかかっていきました。けれどもとうてい弁慶の相手になるような者ではありません。弁慶は長刀を奪うと、講堂の上に投げ上げました。長刀をとられた心恩は、今度は太刀でかかってきましたが、それもまた講堂の上に投げ上げられてしまいます。仕方が無いので近くの庵室に走り入り、大きな木の燃えさしをもってきて、弁慶にとびかかります。
「白昼に火を振り回すとは何事か。」
弁慶はこれも講堂の屋根の上に投げ上げます。心恩を左の脇にはさみ、金槌で兜のはちをぐわんと打ちました。
 心恩の同宿の丹後房が助太刀にはいりますが、弁慶はこれもわきにかかえ、かるがると二人の頭を打ち合わせ、
「なかなかよい鐘の音じゃ。」
と涼しい顔。大衆はこれを見て、いっせいに弁慶にかかりました。弁慶は天狗のようにひらりひらりとかわしています。太刀を抜き、斬って回ると、あっという間に主だった衆徒たち五十人を斬り伏せました。
 そうこうするうち、激しい風が吹き、屋根の上の燃えさしがたちまち炎を上げました。衆徒は、
「大変じゃ。経や仏を運び出せ。」
と、大騒ぎになります。弁慶は一度は門を出ようとしますが、立ち返り、
「仏も伽藍も恨みたもうな。衆徒が悪事を犯すならば、何度でもこの堂を焼いてやろう。さりながら、このたびは、この弁慶が方便をもって再建しよう。」
と言って、都へ上りました。書写山から都までは、往復四日ほどかかる道ですが、午の刻の終わり(午後一時ころ)に戦が終わると、申の刻の終わり(午後五時ころ)には京にたどりつきました。まず内裏へ行って、
「播磨の書写山は今日の午の刻に炎上した。急いで再建せよ。さもなくば、天下の大事がおこるであろう。これは書写山の伽藍からの使いである。」
と叫ぶと、どこへともなく消えていきました。内裏では大騒ぎになり、清盛入道のもとに勅使がたてられました。清盛が書写山へ使者を遣わして調べさせると、使者は往復四日かかって京都に戻り、書写山の状況を報告しました。清盛親子は参内し、
「書写山はあのお告げの通りだったということです。午の刻の炎上を申の刻に告げるとは、人間業ではありません。まことに仏菩薩のはからいにちがいありません。」
と報告しました。そこで帝は鍛冶や番匠を書写に遣わしましたので、書写山はほどなくもとのように再建されました。


下巻へつづく

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