(注)京都大学附属図書館報「静修」 Vol. 28, No. 3 (1991年12月発行)より転載したものです。


      鈴鹿本 今昔物語集をめぐって


                       文学部教授

                            安 田  章


  10月8日の夕刊各紙は、今昔物語集の鈴鹿本全9冊(巻二・五・七・九・十・十二・十七
・二十七・二十九)が、その朝、所蔵者の鈴鹿家当主の紀氏から本学附属図書館に寄贈さ
れたことを一斉に報じた。鈴鹿本が、今昔物語集の現存写本の中でも最古の、かつ、現存
諸本のいずれをも従える、つまり祖本の位置にあるものであることは、広く知られていた
が、蠹蝕の甚だしいこともあって、各紙が鈴鹿本を「幻の写本」と称していたとおり、誰
もが容易に披見し得ない、まさに高嶺の花的存在であったから、このニュースは、大きな
感動を以って諸学界に歓迎されたに違いない。これまで何人の今昔物語集研究者が鈴鹿本
を実見したことであろうか。

  この本の存在が広く学界に知られるようになったのは、大正4年12月、京都帝国大学文
科大学の機関誌『芸文』に掲載された、当主の父君、鈴鹿三七氏の手になる「今昔物語補
遺」からであろう。巻二・十七の、「従来史籍集覧本にも丹鶴叢書本にも載せられていな
い未刊のものである」説話24が、その号から翌年にかけて、『芸文』誌上に紹介され始め
たのであった。改めて大正 9年11月、鈴鹿三七氏は、氏の曽祖父、この本を購入された鈴
鹿連胤(明治 4年薨)五十年祭記念に、その「未だ世間に全く知られてゐない部分」を、よ
り原本に近い形で、『異本今昔物語抄』として公刊された。この『異本今昔物語抄』の本
文が、そのまま芳賀矢一纂訂『攷証今昔物語集』(大正10年刊)に収録されて、世に知られ
るところとなったわけであるが、鈴鹿本全 9冊の本文が、読み易い形で、翻刻・提供され
るまでには、なお40年の歳月を必要とした。日本古典文学大系(岩波書店)の『今昔物語集
』(昭和34年~38年)がそれであった。古典文学大系本は確かに人々の渇を医しはしたけれ
ども、用途によっては、活字翻刻では隔靴掻痒、困ることもある。例えば、表記・用字を
初めとして、本文の体裁を踏まえての成立・形成の問題まで、今昔物語集を論ずる際に、
現存写本の祖本と目される鈴鹿本のありようそのものをどうしても調べなければならない
のであった。

 学界に登場して80年、鈴鹿本は、今昔物語集研究の基礎資料として多くの研究者に活用
される方向に向けて、改めて一歩を踏み出そうとしている。             


 『異本今昔物語抄』の、本文提示に先立つ解題に、鈴鹿三七氏は、

この九巻の残欠本はもと奈良附近の古寺に在つたものと想像せられるが確かな
記録が残つてゐない、それが転じて我が家の有に帰したのは天保の末頃であら
う・・・・・・曽祖父連胤の努力によるものである。

と記されていたが、鈴鹿家の有に帰する以前の、天保 4年(1833年)正月に、この本の巻十
二を見た人があった。国学者伴信友である。彼は、その顛末を、

奈良人某ノ蔵テル古本ノ今昔物語集第十二巻一冊ヲ見ル、或人ノ計ラヒテタダ
二日ヲ限リテ借ル事ヲ得テ校合セリ

で始まり、

此本全ク備リテ在ルニカ欠ナガラモナホ在ルニカ、イマダヨクモ聞定メカネツ
、時アリテマタマタ得テミムヨシモガナ

と結ぶ「十二巻奈良本批校之間事」に書き記している。彼の念願------時アリテマタマタ
得テムヨシモガナ------は11年後に叶えられるところとなった。「十二巻奈良本批校之間
事」に続く「追記」として、信友は、

天保十五年三月京ニアリテ鈴鹿筑前守連胤ノ近頃奈良ヨリ購得タリトテ秘蔵ル
此物語集ノ古写本ノ闕巻ヲ乞得テ見ルニ、本朝部第十二第廿七第廿九ノ巻三冊
アリ、其第十二巻ハ上件ニ記セル如ク既ニ己ガ本ニ校セル子本コレナリ・・・
・・・ソモソモ去シ天保四年ニ此古本ノ第十二巻ヲ見テ、欠ナガラモナホ世ニ
有ラバト見マホシカリツルニ、十年ヲ経テ後今ユクリナク京ニ来テ件ノ二巻ヲ
見ル事ヲ得タルゾメヅラシキ

と書き遺している。この記述から、信友が「奈良本」と称していたその本が、外ならぬ鈴
鹿本であったことが判明するのである。

 天保4年、巻十二1冊についての、しかも、「タダ二日ヲ限リテ」の調査で、彼は、奈良
本の性格を見抜いていた。即ち、

其奈良本・・・・・・通校スルニ、今ノ写本ハモト此奈良本ヲ写タルヲ次々ニ
転写セルモノトミユ

これを今日的表現に改めれば、奈良本は現存写本の祖本である------ということになる。
そして、その「証」として、彼は、

奈良本折口ノ方イタク蠹損シテ事ヲ失ヘル処多シ、写本ニ字ヲ欠タル処悉其蠹
損ノ処ナリコレ今ノ写本スナハチ此奈良本ヲ以テ写セル証トスベシ

と述べているが、 120年後、鈴鹿本を実見して、彼の「十二巻奈良本此批校之間事」と別
個に、同様の推断を下したのが、馬淵和夫「今昔物語集伝本考」(『国語国文』昭和26年5
月)であった。

 天保15年の調査において、信友は、「ソノ第二十七巻ノ第四十語ノ初張ノ左ノ末ノ行」
の「紙端ノ縫下ニ虫損ノ間ニ字見ユルヲ、ヤヲラ推排キテ」奈良本を書写した時の「筆ス
サヒ」と見られる書き入れを発見した。それは、奈良本(鈴鹿本)の、更には今昔物語集そ
のものの成立論や成立圏の問題に直接結び付くはずもないけれども、書写の場について問
題を提供した。この類の、本の綴じ目の部分、いわゆるノドの奥にある------全て料紙の
端にあたり、袋綴に装訂すると綴じ込められて見えなくなる------書き入れは、酒井憲二
「伴信友の今昔物語集研究」(『山梨県立女子短期大学紀要』第 9号)「伴信友の鈴鹿本今
昔物語集研究に導かれて」(『国語国文』昭和 50年10月)によると、第二十七にもう1ヶ所
、巻十・十二・十七にそれぞれ1ヶ所、都合5ヶ所にあるという。


 鈴鹿本の修復がどのようになされるものか知らないが、 9冊の全てにわたって、総裏打
を施す必要があるだろう。そのために、一度は綴糸を切って解体しなければなるまい。そ
れは、書写後現形態に装訂される以前の1枚1枚に戻すことになるわけであるが、その際に
、どのような、伴信友以来の新しい事実が出現するか、今から楽しみである。

 然モノセルホドニ其蠹損ノ僅ニ残レルガ塵トナリテ失」われて行くはずだから、修復作
業は「紙ノ縒レ縮ミ或ハ堅マリテアルヲ小箆ヲモテ懇切ニ開キ意ヲ尽シテ細ニ」なされる
に相違ない。その完成を待つ間にも調べてみたいことがある。その一つは、信友は「奈良
人某」と言い、鈴鹿三七氏は「奈良附近の古寺」とする、この本の出所についてである。
鈴鹿本を収納してあった、見るからに古色蒼然たる箱には、「今昔物語集」と直接墨書さ
れており、蓋の裏に印が捺されていたように記憶する。もしそれが読み解けるならば、そ
こがこの本の出所であると速断することは避けなければならないにしても、鈴鹿本(奈良
本)、今昔物語集の享受、流通について、問題を投げかけるであろう。鈴鹿本が、単に今
昔物語集研究のみならず、広く中世文化史の研究に大きな便益をもたらして行くことは疑
いない。

鈴鹿本の特異な形態と謎の多い伝流、書写の特異性の意味するところは、今後
の研究が必ず引き継いで行かねばならない大きな課題である(池上洵一「『日
本文学研究大成 今昔物語集』解説」)

今や真の意味での公開------複製本の作成・公刊の日が待たれるところである。


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