(注)京都大学附属図書館報「静修」 Vol. 30, No. 1 (1993年6月発行)より転載したものです。


      範国記・知信記・兵範記


                  総合人間学部教授

                            上横手 雅敬


                  1

 京都大学附属図書館には平松文庫という集書がある。平松家は江戸時代の初め西洞院家
から分かれた公家であり、明治以降は子爵となったが、京大は同家から3,100余冊の家伝
の文書・記録・典籍を永久寄託され、のちそれらを一括購入したのである。

 平松家は桓武平氏の流れをひいている。桓武平氏の諸流の中では、桓武天皇の皇子葛原
親王の系統が栄えたが、それにも親王の子の高棟に発する系統と、孫の高望に発する系統
とがある。平清盛をはじめとする武門平氏は後者に属する。前者の高棟流は宮廷貴族とし
て繁栄し、特に參議平親信の系統は、代々有職故実に詳しく、実務官僚として要職につき、
丹念に日記を記してこれを伝え、「にき(日記)の家」と呼ばれた。親信・範国・行親・
定家・知信・時信の日記が残っており、それらは「平記」と総稱される。他に知信の子信

                               
桓武天皇───葛原親王─┬─高棟(中略)───親信──行義─┐
            └─高見王──高望         │
                              │
┌─────────────────────────────┘
│                              
├─範国──経方──知信─┬時信─┬─時忠          
└─行親──定家     └信範 ├─時子          
                 └─滋子          
                               

範の「兵範記」があり、質量ともに上の諸記を凌駕している。これら7種の日記に書かれ
ている年代は、天禄3年(972)〜元暦元年(1184)に及び、平安中、後期200余年にわた
っている。日記の書写、整理も進められたようで、信範は先祖の日記、さらに自身の日記
までも、みずから清書したり、他人に命じて書写させたりした。この信範の書写事業によ
る古写本が、今日に伝えられているのである。平松家はこの系統の平氏の子孫である。

 この系統は代々藤原摂関家、近衛家に家司として仕え、いつの日か主家に家伝の日記を
献上した。ところが江戸前期になって、その一部が近衛家から信範の子孫である平松家に
戻された。延宝5年(1677)中納言平松時量の懇望で、近衛基熙が信範の真蹟(と見られ
る)「兵範記」20余巻、「範国記」「知信記」各1巻を平松家に分与したのである。平松
家本が京都大学の所蔵に帰したため、近衛家の文庫である陽明文庫(京都市右京区)と京
大とは、諸記を分蔵することになった。京大には上の諸巻が、陽明文庫には「親信記」4
巻、「行信記」「定家記」各1巻、「知信記」「時信記」各2巻、「兵範記」29巻が伝え
られた。いずれも平安後期の古写本で、重要文化財に指定されている。

 京都大学収蔵書の中、「範国記」の記主平範国は、関白藤原頼道に近侍し、従四位下、
伊予守、春宮大進となっている。「範国記」の中では、永承3年(1048)の「宇治関白高
野山御參詣記」が『続々群書類從』5に収められ、刊行されているが、他には長元9年(
1036)夏秋冬(4月〜12月)記が伝わるのみで、これは未刊である。京大蔵本はこの部分
であるが、巻末の奥書によれば、範国自筆の記が焼失したため、長承2年(1133)信範が
一族の左中弁平実親の所蔵本を借りて書写したという。

 「知信記」の記主平知信は範国の孫で、関白藤原忠実の家司をつとめ、従四位上、出羽
守となった。その日記は大治2年(1127)から保延元年(1135)に及んでいる。一部は刊
行されているが、京大収蔵の古写本は、天承2年(1132)春(正月〜3月)の記で、やは
り信範の書写と見られ、未完である。

 「兵範記」は知信の子信範の日記である。名稱は兵部卿信範の記という意味である。正
三位、兵部卿になったのだから、父祖よりも出世したといえる。家司として藤原忠実・忠
通・基実・基道ら近衛家歴代の摂関に仕え、鳥羽・後白河両上皇の院司をも勤め、政治や
儀式に通じた有能な官僚であった。めいの時子は平清盛の妻、その妹滋子は後白河の女御
で、平氏との関係も深かった。

 「兵範記」は天承2年(1132)から元暦元年(1184)まで、信範が21歳から73歳に至る
までの記事が残っており、鳥羽・後白河院政期、平氏の興隆・全盛期に関する好史料であ
り、記事は詳密・正確な点で群を抜いている。平安後期の古写本54巻の中、29巻が陽明文
庫、25巻が京大に収蔵されている。それらは日ごとに書き継がれた原本ではなく、信範そ
の他による清書本である。

                  2

 先年、文学部国史研究室(博物館)収蔵の平松文書中に含まれる、111葉の断簡を調査
した結果、それらが京大附属図書館と陽明文庫に分蔵される「兵範記」の古写本と一連の
ものであることが判明した。断簡であるため、年代を明らかにし、正しい順序に配列する
のはかなり困難であり、とくに年代を知る手掛かりのない断簡もあるが、それらが仁安2
年(1167)2月、嘉応元年(1169)7月〜8月、11月、承安元年(1171)7月の記事であ
ること、他に仁安2年3月7日条、10月21日条を含むことがわかった。その後、年月日を
明らかにする仕事を進め、年月日未詳の断簡は12葉を残すのみとなったが、それらは難物
中の難物である。

 「兵範記」は著名な日記であるだけに、すでに『史料大成』で活字本5冊が刊行されて
いるが、これらの断簡は完全な新史料である。平安後期の、原本にも近い未完の日記が5
か月分も発見された意義は大きい。附属図書館には嘉応元年8月6日〜9月29日の記が収
蔵されているが、これにこの断簡約40葉、陽明文庫所蔵の断簡3葉を加えることによって、
7月から9月末にいたる嘉応元年秋巻がほぼ完全に復元できるのも、成果の1つである。
歌人式子内親王の生年は不明であったが、久安5年(1149)であることがわかったのも収
穫であった。

 今年の3月、今度は附属図書館から「兵範記」の断簡があるとの御連絡を受けた。仁安
3年3月23〜26日の記である。仁安3年3月巻は陽明文庫の所蔵であり、その一部が脱落
したらしい。この部分は『史料大成』ですでに刊行されており、その底本となった近世の
写本には収められていたのだから、その後に脱落したことになる。しかし逆に古写本にあ
って、『史料大成』本に欠けている場合もあるから、脱落の事情を説明するのは難しい。

 主要部分が陽明文庫にあって、断簡が京大にあったと述べたが、逆に主要部分が京大に
あって、断簡が陽明文庫にある場合もある。保元2年(1157)11月15日条、嘉応元年(11
69)7月26〜8月3日条などの断簡がそれである。これも説明困難である。

 上に述べたように、陽明文庫所蔵の「平記」・「兵範記」と、京大のそれとは、本来は
一体である。最近は影印による出版が盛んで、古記録の形状をそのまま知りうるようにな
っているが、陽明文庫所蔵の日記・文書は『陽明叢書』として影印による出版が進められ
ている。「兵範記」の古写本29巻は『人車記』(全4冊)の書名で、私が解題を付してこ
の叢書で刊行した(「人車記」の「人」は信範の「信」の扁、「車」は「範」の一部で、
「人車記」は「兵範記」の別稱)。

 次いで『京都大学史料叢書』の一部として、今度は『兵範記』の書名で、京大所蔵分の
出版をやはり影印で進めている。全4冊の予定で、3冊はすでに刊行を終えたが、その中
には「兵範記」古写本25巻の中、20巻が含まれている。いよいよ最後の1冊が残ったが、
それには「兵範記」古写本残り5巻のほか、「範国記」「知信記」、それに文学部博物館・
附属図書館の「兵範記」断簡までも収め、さらに解題を加えることになる。「範国記」「
知信記」、それに「兵範記」断簡の多くは、未刊の、学界未紹介の史料である。刊行が遅
れて御迷惑をかけて来たが、いそいで完成させたいと思う。

 なおこれらの日記の多くは、文書の裏を用いて書かれており、日記の裏の文書にも貴重
なものが少なくない。『陽明叢書』『京都大学史料叢書』(いずれも思文閣出版刊)では、
これらの裏文書の刊行も計画されている由である。


[Home Page of Konjaku]

[Home Page of Library]