書物の森のなかへ


  みなさんのなかには、まだ文学部閲覧室の書庫に入ったことがない、という人がいるかもしれない。そんな人のためにひとこと言っておくと、それは一生の損である。
  もちろん、調べものをしていて、ある書物を探すために書庫に入ることもかまわない。しかし、わたしがここでおすすめしたいのは、特にこれという目的もなく、ぶらりと書庫に入ってみることだ。
  樹海に迷い込んだような書物の森のなかを、あてもなく散策してみること。空調で大幅に希釈されているのは仕方ないが、それでもかすかな書物の匂いを吸い込んでみること。そして、どういうわけか立ちどまり、つい手が伸びてある一冊の書物をつかみだす、その指先の感覚を味わってみること。簡単に言ってしまえば、文学部で学ぶということは、この本をつかみだす指先の感覚を鍛えることに他ならないからだ。
  あなたが数あるなかから偶然につかみだした書物は、とても古くて、先人の鉛筆による判読できないような書き込みやら下線やらがいっぱいあるかもしれない。それをけっして嫌がらないことだ。あなたがその本を手にした瞬間に、あなたとそのいつの時代か知れない先人とは、本を仲介にして交歓するのだから。ひょっとしたら、わたしもいつか文学部をやめるときに、蔵書を引き取ってもらうことがあるかもしれない。それが書庫に並べられて、百年先の読者をじっと暗がりのなかで待っているかと思うと、わたしの読書人生もまったくの無意味ではないかもしれないという気がしてくる。
  あなたがつかみだした本に貼られている、貸出票を眺めてみよう。そこに記録されているのは、その本の上を通り過ぎた視線の数だ。そして今、あなたの視線も、そのいくたびかの視線と交わる。
  わたしがかつて前任校の神戸大学に勤めていたころ、書庫の本にはすべて、過去に借り出した人間の名前まで書いたカードがはさまれていた。そして、わたしが借り出す本にはどれも、ある同じ名前がカードに書いてあった。要するに、わたしが読みたいと思った本は、ある人が前に全部読んでいるのだった。わたしはそこに記されていた「池内紀」という名前をしっかりと記憶にとどめた。それ以来、わたしは池内さんが書くエッセイの大ファンである。かつては池内さんと同じ本を――それもまさしく同じ本を――何冊も読んだことがあるというだけで嬉しくなる。この気持ち、わかってもらえるだろうか。
  その逆に、あなたがつかみだした本は、貸出票も貼られていなくて、もしかしたらまだだれも読んだことのない本かもしれない。つまり、あなたが初めての読者になるわけだ。そういう本に出会ったら、もちろん大切にして読もう。
  わたしが旧教養部に勤めていたころ、そこの英語教室の書庫には、『タイム・マシン』で名高いH・G・ウェルズのアトランティック版著作集全二十八巻が置かれていた。これは一六七〇部の限定版であり、ウェルズ自身のサインでナンバーが入っている。まあとびきりの稀覯本というわけではないにしろ、やはりそこそこの値打ち本である。そこに収められているある長篇小説が読みたくて、その巻を手に取ったら、なんと驚いたことに、まだだれにも読まれていない本だった。そんなことがどうしてわかったのか、と思う人もいるかもしれない。実を言うと、この著作集は四ページずつ綴じて製本されていて、わたしが手に取った巻はそれがまだカットされていなかったのである。ペーパーナイフという洒落た道具は持っていなかったので、果物ナイフか何かで切ったような記憶があるが、そのときにはなんとも表現できない気持ちになったものだ。宝の山のようなウェルズの著作集が、それまでずっとだれにも読まれずに書庫で眠っていたとは!  京大の先生たちも、あんがい本を読まない人間ばかりだなあ、と思ったりもした。
  それはともかく、昔は書庫の薄暗がりのなかで一冊の書物を引き当てることが勉強だった。それが今では、インターネットで新本や古本のデータベースを検索するのが指先の訓練になっている。たしかに、そうした検索は無駄がなく、すぐに目的の本を見つけられるかもしれない。しかし、書庫にあふれる書物の森をさまよってみるという体験なしには、およそ文学というものは成立しないのではないかと思う。どんなに古い本であれ、本たちは生きている。書庫のなかでひっそりと息をひそめ、未来の読者を夢見ながら眠っている。そう、ちょうど眠れる森の美女が、王子様の出現を待ちわびているように。
  さあ、手を伸ばそう。まるで偶然の出会いのように見えるが、実は運命に導かれた出会いでしかない、今あなたの目の前に現れた一冊の本に。

(若島正)

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